会長敬白

4.自動車修理で思った事-1

スペシャル2コイチNチンとの蜜月期終盤期を迎えた頃(飽きたけではない。隅々まで『征服』してしまって教材・先生から対等な立場の相棒、愛車となったつもりでいた)、正しい修理屋さんの修行は続く。ポイントを分解して,荒研ぎ、オイルストーンで仕上げ。のポイント再生作業首席担当者(担当は私1人だったけど)に出世。ポイントは修理工場での主要な整備、交換部品。当時、私にとって一番楽しい作業だった。

 全部が全部再生出来るわけでもなく、当然何個かダメにした。新品ポイントを引きちぎる感覚はどーも好きになれなかった。(当時の修理工場の壁には、車種系列毎の大きな厚紙台紙がいくつか吊るしてあった。それにナイロン袋入りの新品ポイントがずらりとぶら下がっていた。丁度、駄菓子屋の「クジ」をイメージしてもらえば良い。あっ、読んで下さっている方で「ポイント」も「くじ」もご存知無い方がいらっしゃるかも。それは貴方のせいではありません。今や両方ともほぼ消えて無くなっているものですから)

  少しはお客様の車輌を触らせてもらえるようになってきた。とは言っても、ボンさんのまんま。2廻り歳上の先輩から1つ年下の先輩まで各年代の人達にやさしくこきつかわれる毎日。そんな或る日、ネジ山の伸びる感覚が判った。メガネを通して。

 「うぅーん。もうメ一杯密着。これ以上ネジ込まれるともうダメ・・・形崩れてくるもんネー」と、ネジ山崩れかけ情報が手に伝わって来た!手に。

 2輪部門の主任にリーチさんがいた。リーチさんは、Tレンを持つといつも手の平でクルクル回していた。後年、プロテニスプレーヤーがゲームの合間にラケットをクルクル回すのを見て、あれはリーチさんの真似だ。と思った。それ程までにリーチさんの手にTレンが溶け込んでいた。馴染んでいた。その姿がカッコ良くて、カッコ良くて。暇な時はいつも回す練習をした。本末転倒だけど一生懸命に回わし続けた。出来る様になった。この頃からか、工具からのいろんな情報を感じるようになった。伝わってくる事を発見した。ホント。

 情報を受け取る感度だけでは仕事にならない。部品、車体に対して自分の意志をちゃんと伝えなきゃなりません。今で言うトコのインタラクティブってやつか。まぁライディングと同じでしょうか。ライダーの勝手な入力だけでは、ちゃんと曲がってくれませんよね。

 工具を介して伝える術を少しずつ身につけた。締め過ぎて折ってしまうボルトの数が少しずつ少なくなった。失敗の数が財産になる。失敗のリカバリー策も技術として存在していた時代でもあった。とにかく触りたい。自己完結でお客様の車輌を仕上げてみたい。その為に、任されている部分的な仕事を人1倍早く仕上げて、次の仕事をもらうために工場の中を走り廻っていた。修理屋って商売の要件には技術とか経験、知識に加えて、独特の感覚のようなモノが有るんだ!と、この仕事に手応えのようなモノを感じた20歳の頃の私。
 2年の月日は歳相応の速さ(今の5倍ぐらいゆっくりな速度だったような気がする。今考えると)で過ぎ、ようやくお客様の車輌をちゃんと触らせてもらえる立場になった。飽きなかった。お客様とのコミュニケーションも当然増えてきた。接遇とかもちゃんと出来ていた(今考えると少し汗かく事も有ったが)タイプだったと思う。クルマの仕事が辛いとか、面白くないと思った事は一度もなかったが、でも、やっぱり2輪部門の工場の方が楽しそうに見えて仕方なかった。国内4大メーカー体制が定着。国産大型車が出揃い、国産ブランドのバイクが全世界に怒涛の勢いで拡がり始めた時期だったと思う。

 そんな頃、新工場長になったリーチさんから突然嬉しい話。「内田、明日から2輪にまわれ」と。4輪の修理も楽しいけれど、2輪は修理後の試運転を楽しめる。とりわけCB750Kの試運転は楽しみだぁ!毎日いろんなバイクを触れた。乗れた。シアワセだった。リーチさんに叱られる日々は続く。ドンドン財産が増えた。吸収出来た。注意力散漫感覚至上少年も、多少はマシな21才の青年になりはじめていた。

 どんな部品も使えるところまで使おう。という時代がしばらく続いた70年代に学んだ事が、ドゥカティだって直せるよ。と後日言えた私の不確かな自信の源に違いない。(そういった意味では今のウチのスタッフは可哀想かもしれない。殆どのネジをトルクレンチで締めるから、ねじ山の伸びる感じを体感してないかも。今度訊いてみよう)

 もうちょっと。もう止めておこう。ドぉーかなー。あの感じ。メガネで締めつけた後、トルクレンチで時々測ってみると、ほぼ狙ったトルク。今の私の財産のひとつか。そう言えば、あの頃憧れていた、1つ歳上の総務の彼女もバーさんになってしまっているのかなぁ。1つ歳下の私がトルクレンチの目盛りを読むのに随分と時間がかかってしまうのだから。

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