会長敬白

5.私見・この頃の二輪メーカーは

今(02)、岡山では国産2輪メーカー各社あたり営業担当の人1~2人がPC片手に県内全店をカバーしているように見受けられます。車輌も部品もモノのほとんどがネット受発注されて、各社の物流センターから直送。販売生産性は随分と上がったことでしょう。と同時に忙しいだけの無機質な時代になったものです。まぁ2輪関連の商流に限らず、どの業界もこうした傾向なのでしょうけど。

 開店頃のメーカーっていうか、メーカー系の販売体制に付いて思い起こしてみるに正に隔世の感です。このあたりを開店当時(86)の私・ウチダが思ったコト、感じたコトを綴ってみます。あくまでその当時の感覚的な私見、しかも思い出しながらの内容ですので、各社の当時の実態と違っているトコも多かろうと思います。私がこの業界へ入る「願書」をもらいに行った時、未就学児童の私の目にどう映ったのか、思い出したものです。失礼の段ありましたらご容赦いただきたい。はい。


 開店後半年ばかりだろうか経った頃、トリちゃんに訊かれた。

「そりゃそうとオトーさん。そこそこのキャリアを積んで責任ある仕事も任されとった状態のサラリーマンの立場でよう思い切って独立したなぁ。なにより開店資金よう有ったなぁ。今の在庫だけでも開店時は1度に抱かにゃいかん。すげーモンじゃが。遺産でもあったんかな」

「遺産?そんなもなぁーありゃせんで」

「運転資金だって要るだろうに」

「自慢じゃネエけどそんなモノも無かったんよ。今も無いに等しいけど」

「えエッ!? じぁー・・・あれかな・・・つり銭だけ用意して店開いてしもうたんかな」

「まぁ・・・そういうことになるなぁー」

「不安じゃなかった?」

「それがなぁー、そん時ゃ不安じゃなかったんよ。今は随分と不安じゃけど・・・」

てな会話があった。

 そうなんです。つり銭だけ持って店開いた私です。賢明な読者、お客様、特にこれから独立起業を目指している方は決して真似しないで下さい。


 ホンダ、ヤマハ、スズキの3社の県内1次店さんが販売店契約をしてくださった。お陰様で、開店前日には各メーカーの主要車種が「委託販売車」として大量に持ちこまれた。店舗さえ有れば、商品はメーカーが置いてくれる最後の時代だった。つり銭だけ持って店始める事が出来た最後の時期だった。
 メーカーが拵えたモノを置いておけば、お客様はその中から選んで買って下さる。特に努力しないでも卸していただけて、売らせていただける。そんな時代の最後に開店したコトになる。そんな市場が形成されていた時代からのスタート。今から思えば良かったのか、悪かったのか?その後遺症か、何時までたっても売るコトがドーモ苦手な私です。


 お店を始めるにあたって、ドゥカティだけでメシが食える訳は無い・・・という判断くらいは私にも出来た。国産メーカーに販売契約をしていただたくべく、挨拶も含めて出掛けて行った。

 ホンダ。当時はホンダ2輪岡山という独立した大会社だった。それ以前まで在った地元資本のO社、M社等の多数在った地域内1次店の元スタッフが全員?集合して出来た大会社となっていた。いったい当時何人居たのだろう。あの人達の給料全額まかなえて尚且つ利益も・・・やっぱりバイク売れてたんだ。当時は。
 「シェアNo.1の死守だ!ウォー!」といった雰囲気は対外的にゼンゼン見せない平和な空気を漂わせている会社と感じた。「まぁ・・・ナンですなぁー。今アレですから、まぁ今度またナニしましょうや」的な穏やかなオトナの空気が流れている会社だった。

「あのー、バイク売らせて頂きたいんですけど」
表玄関の大きなガラスドアを押し開くなり、大きな声で言った。「だれじゃ、こいつは…」という視線の中に何人かの顔見知りを発見し、ホッとしたりした。

「まー、イ・チ・オ・ウ書類だけ渡しときます。最低契約台数がこうで、その場合マージンがこれだけで。あーそれから保証人さんお願いしますね」
のんびりした空気が充満した事務所の片隅で、専務取締役営業部長さんが説明してくれる。先ず、販売利益率の低さに驚く。初めて知った。1台売っても一家で焼肉に行けない。
「あー、それから末締めの翌月10日払いでお願いしています。支払いはウチに直接持って来て下さい」
と、最後の一言。

そうなのか。買った側が売って下さった側にお代を持って行くのかぁ。何かヘンだけど、まぁしょうがない・・・。でもヘンだ。

「売らせていただきたいんですけど」
と、正直謙虚な気持ちで確かにお願いはしました。その返事は、

「しょうがないなー。まー売らせてやらんことはないけどなぁー」

と聞こえてしまう。この「売らせてあげる」意識を今でも感じてしまう私は、執念深いタチなのか、あの日に感じたコトがトラウマとなってしまってるのだろうか。


 ヤマハ。ヤマハ岡山という名でメーカー100%出資の地域独立企業が1次店。やはり多くの営業スタッフが居た。「Hを追い越せ、追い抜け」とのピリッとした社内の空気に販社としての真面目さを感じさせられた。
 年間12台の販売契約をいただいた。何台売れるモノやら見当さえ付かない。実は売れるとは100%思っていなかった。しかし、販売「目標」としての契約で卸してもらえる時代だった。平和だったなー。


 スズキ。Hスズキ、Oスズキの地元デーラー2社で県内テリトリーを2分して市場展開していた。お世話になったアキヤマ君はHスズキの営業マン。
 本当に彼のお陰で今の僕が有るんだ。と最近つくづく感じる私です。私のいきなりの独立決意に親身に考えてくれ、アドバイスをくれた。彼の働きかけのお陰で、最初の1年間、店舗運営費の部分負担とか、ホントに有り難いメーカーからの助成制度の適用になった。
お陰で前の店で開店することが出来、「内田さん。お店に帰って下さい」というパチンコ屋さんの呼出メッセージを何度も聞くことが出来た。本当にあの時のご助力には忘れるコト無く有難く感謝しています。有難う。アキヤマ君。
おっと失礼。今はHスズキ社・アキヤマ取締役でいらっしゃいます。


と、まぁヘンだナンだと色々言いながらも、業界全方位のお陰様でこの2002年、この業界でどうにか口に糊させていただいてるのが事実です。お礼申し上げます。あの頃に比べると、どーも寂しくていけないこの業界。

 今更、「甦れ!レプリカ全盛期」とかでもないし、どうなっていくのだろうか。今後この業界に身を置いて私は何が出来るのか。答えは出ないのを承知で考えてしまいます。
 だだ1つ、私個人の範囲で出来ると思うコトは、正しいバイクの楽しみ方を出来る範囲で多くの人に知ってもらうこと。この業界が元気良かった頃は車体を売って、お客様が楽しんでいた。それで商売になったし、そのスタイルをお客様も受容していた。
 「車体先に在りき」ではダメって、今思う。「楽しんでいただく」その結果「車体」の提供が必要であり、その内の1つが「ドゥカティ」。私はたまたま「ドゥカティ」で「楽しんでいただける」お客様のお手伝いをする。

 正しいバイクの楽しみ知らずにライダー人生終える人達イッパイいるのでは。足がこうじゃ。エンジンがこう言った。ゼンゼン曲らん。この前は上手く乗れたのに。あそこに新しい道出来たよ。今日の課題は?うーん。バイクに乗る事ほんまに楽しいですよねー。

 試乗車有ります。もう1度ライダーしたい人。お寄り下さい。ウチのドカ子がお手伝いします。蘇れもう1度。ワクワク・ドキドキのアノ気分。
 業界全体の中ではピンポイントのような受け持ち範囲だけれど、まぁこの領域が私の生きる道と思う。これで儲かれば言う事無し。なんだけど・・・これは、今後の生涯にわたる課題となりそうで、いつも閻魔様に叱咤激励をいただいています。

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