会長敬白

10.そうだ!バイク屋をやろう!

「今日は何時に入る?」と、相棒のまっつぁんに連絡するのが夕刻の日課となっていた。偶然知り合った仲のまっつぁん。年齢、本業の共通性、乗り物好き、海も好き、乗り物に対しての嗜好、ずいぶんと近いモノがあって、話も気も合った。待機時とか、お客様を送った後の車中でよく話した。車のラジオからは御巣鷹山へ日航機墜落、500人も亡くなった。とのニュースが流れていた。「えれぇーコトになったなぁー」とか言いながら、正しいオジさんの遊びと、「もっとこうして遊びてーよなー」といった将来の出来たらイイよなこんな生活、仕事。とかを語り合っていた。まっつぁんは、大手4輪ディーラーのサービス部門をスピンアウトしたトコだった。

 街には正しいキャバレーは無くなって久しく、ライブ系のお店も流行らなくなっていた。飲み屋はカラオケスナックばかりになっていた。ビルごと、全館カラオケルームといったしろものが出現し始めた頃。こんな中で、バンドマンの需要は無くなり副業を失った。釣りにも行きたい。当然、バイクも乗り続ける。ビールだって・・・そりゃ絶対に止めるわけにはいかない。次の副業は代行運転。まっつぁんとペアでオジさん2人、夜の街をブイブイ走り廻っていた。

 900SSとの出会い。パンタの来訪。心の真中に点けられた赤い火種が、少しずつ確実に大きくなって来ていた33歳の私。1985年になっていた。
 この頃はHY戦争まっただ中の時代。毎年毎年ニューモデルが発売になり、乱売合戦の様相が外からも覗えた。同時に、あちこちに新しいバイク屋さんがにょきにょき生えてきていた。

 アウトドアブームの派生だったのだろうか、ちょっと遅れてバイクブームが大きなものになっていた。流行りのアイテムとしてバイクを所有してみる若い男の子。「たまにはバイクなんかも乗っちゃう人なのよねー。私って」と、スクーターじゃなくて自動2輪をライフスタイルのアプリケーションの1つとして添える若い娘さん。こうした新しいバイクの需要、新種ライダーを、「バイク愛好者が増えるのはヨイ事だ。でも、このブーム、ちょっとヨー解らんトコもあるなぁ。まぁ、みんな楽しいんならエーか」と、不思議な気分で眺めていた私です。

 2輪車総量の急上昇は感覚的に充分理解出来た。スクーターが街中に溢れ、老若男女みんなバイクに乗っていた。いつもの金甲山の駐車場には多くのバイクが集まり、早朝から日暮れまでいろんなバイクのバトルが続いた。毎週のように誰かが新しいモデルに買い替えていた。いったいあのころの仲間の何人が今もライダーしてるのだろうか。

 代行運転の相棒のまっつぁんが、夢だった自動車屋さんを開業した。「エーなぁー。これからぁー全部自分の時間じゃなぁー」と、激励とお祝いを申し上げた私です。今考えると、少し急所から外れた激励とお祝いだったような気もします。ま、本当にそう思ったのだからしょうが無い。

 「そうそう。全部自分の時間。でも、お客さん連れて独立するわけじゃねーから、1からのスタート。ずぅーと仕事無くって暇で、その自分の時間とかやらを持て余したりして。パチンコで喰ってたりして・・・そのうち1家4人干上がったりして。豚の干物、栄養失調の熊じゃ絵にならんわなぁ。そん時ゃ何か食わしてやってヨッ。ワハハハハハッ」と、開業にあたっての不安はあるものの、明るく笑い飛ばすまっつぁん。

 夢とか、次のステップの目標。その入り口に達したまっつぁんを身近にまのあたりにして私が思ったコト・・・そうだ!バイク屋をやろう!

「そうじゃ、オレも独立しよう。そして儲けて、ドゥカティ買おっ」
「でも独立したからって絶対に儲かる訳じゃないわなー」
「いやいや、買えんでもお客様に買ってもらえたら乗ってみれるなぁ」
「売れたら直してみれる。触れる」
「直したら、試運転せねゃいかんわなっ。そしたらまた乗れるがな。これゃーエエ」
「決めた。バイク屋しよう。絶対楽しいよな。うん」

朝から晩までバイクを見て過ごせる。そうしよう。スズキのアキヤマ君に即電話して、「バイク屋しょうと思うんじゃけど、どんなじゃろ?」と、ホントいきなりなコト尋ねる私です。

「えっ、独立。そりゃーええけど、1年前とちごうてバイクそんなに売れんよ。それにお金もかかるし・・・ちーたー貯めとんか?まぁ・・・どうしても言うんじゃったら協力するで。まぁ、何事もやってみにゃー判らんし・・・」と心強い返事。に、聞こえた。

 そこで気が付いた。貯金いったいいくら有るんじゃろう。バイクにいっぱいお金使うたからそんなに残ってないと思うな。ウーン。困った。と一瞬思ったが、すでに気分はすっかりバイク屋の店主になっていた。バイク屋しよっ!

 自分には今1つ理解出来ないこのバイクブームだけども、このブームをあてにして、その市場拡大期の今こそ独立すべきだ。とかのマーケティング的な思考はこの決断に全く介在しない。ましてやこの年、「プラザ合意」とかで先進国の蔵相が(まだこの頃は5ケ国・G5といっていた)「ドル高是正」とか勝手に決めて、前の会社が倒産した時の不況に続く大きな不況。「円高不況」と後日名付けられる時期に入る。なんてなコトは知る由もない。よりによって、社会に出て見舞われる2度目の大きな不況前夜に「気分はバイク屋店主」になっている私でした。

 まーどうにかなるか。始めてしまえば。親子4人食っていくぐらいは(家賃5千円の市営住宅でモちょっとガマンすりゃええんじゃ。子供も小さいしそんなにお金要らんはずじゃ)どーにかなるじゃろ。うんうん。なるなる。なにより、「もっと楽しく」の基本方針に沿った正しい確固たる意思決定だ。今思うに、またまた安易に素早く決めた私。

 ところが・・・ちょうどその頃、勤めている会社の移転が決まった。森さんが借金して自前の社屋を購入。当然ずっと私が勤めているに違いない。という前提らしい。あっという間に新しい工場は建ってしまった。気持ちのイイ、段取りのイイ工場での仕事も、「辞めさせて下さい」という1言が言えない私にはつらい毎日。ホント、弱った。

 遊びを含め、いろんな事を教えてもらい、ちゃんと勉強する時期を持たせてくれた。ずっと世話になりっぱなし。結婚の仲人までしてもらった。今や森さんにあてにされているのが解るだけに、期待を裏切るのが辛い。言わなきゃいけない。でも、言えない。悶々と過ごす毎日。

ある日の終業後、意を決して言った。

「すみません。辞めさせて下さい。独立しようと思います」
驚いた顔を一瞬見せた後、森さんが言う。

「ほー・・・。独立するか?何するつもりなら」

「バイク屋しようと思います」

「お前バイク好きじゃけんのー。昔から。まーやってみぃ。いけんと思ったら何時でも帰って来い」
と、快く言ってくれた。

 胸の大きなつかえが取れた。私の後任には、同郷で同級生のヒロ(同時期にこの業界に入った遊び仲間)が来てくれる事が決まり、後の事は心配無くなった。もやもやとした心のつかえが取れ、やっと視界が明るくなった。「やったー」と思うと同時に「快く出してくれて有難うございます」と、心の中で感謝した秋の日。

そうこうしてたらその秋、あの阪神が優勝した。21年振りに。在り得ない出来事に不吉を感じる事など全くなく、「あの阪神が優勝かぁ。やっぱりそりゃぁーやってみんと解らんわナ。独立もエーようにいくやも知れんなー」と、全く関係無い事象を捉えて、全く根拠の無い希望的観測をする33歳と6カ月の私。

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